朝ドラ放映中!日本初女性弁護士裁判所所長の三淵(みぶち)よしこさんの生涯とは?

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三淵嘉子(みぶちよしこ)さんとは、

2024年4月から放送が始まった連続テレビ小説の主人公のモデル。女性として初めて弁護士・判事・裁判所所長となった方です。

ドラマのタイトルは『虎に翼』。第二次世界大戦という困難な時代にありながら、家庭裁判所の創設にも関わり、女性や子供の権利擁護に尽力してきたのです。

三淵嘉子日本初女性弁護士裁判長 視聴率もうなぎのぼり!

ドラマのタイトルは『虎に翼』。女優の伊藤沙莉(いとうさいり)さんが演じ、現在の最高視聴率は、16.9%。現代のインターネットの時代では、15%の視聴率が多いとされるそう。つい先日、「虎に翼」は16.9%という最高視聴率を出したばかり。

考えてみるに、「虎と翼」は女性の自立という固い内容を扱っていますが、

  • 朝ドラに相応しい明るい演出、
  • 暗さをみじんも感じさせない女優の起用、
  • 脚本の良さが際立っていたようです。

そんなわけで、16.9%という高視聴率を叩き出しているのだと思います。

 

三淵嘉子日本初女性弁護士裁判長 ニューヨーク帰りの父は職業婦人を推奨!

三淵嘉子(よしこ)さんは、1914年生まれ。青山にある小学校から高校(お茶の水女子大の前身の師範学校)に入学。その後、明治大学の女子部という女性だけの法律の専門部を1935年(昭和10)年に卒業しました。しかしながら、さらに明大法学部に編入しなければなりませんでした。でも、男子学生が多い中、総代で卒業しました。

ニューヨークにも赴任したことがある父親の口癖で「医者になってもいいんだぞ」「弁護士はどうだ?」と毎日のように嘉子さんに問いかけ、嘉子さんは自然と職業婦人の道を歩んだようです。

でも、母親は父親とは全く違った旧来の考え方の持ち主で職業婦人の道より、「お嫁に行く」方が良いと考えていたようです。

三淵嘉子日本初女性弁護士裁判長 司法試験に合格!その後

嘉子さんは1938年3月に卒業。その後11月、司法省は嘉子さん及び同級の中田正子さん、そして1学年下の久米愛さんの3人の女性が高等文官試験司法科に合格したと発表しました。

「あくまで、謙虚に女性のための相談相手になるのだと思っている」と、司法試験に合格した時の朝日新聞のお祝いのインタビューの取材を受けて、つつましやかに語っていたのです。

その後、嘉子さんは、1940年7月から母校である女子部法科の助手をつとめ、1944年(昭和19年)には同教授となり、後進の指導にあたっています。

私生活では和田芳夫氏と結婚、第一子をさずかりますが、1946年芳夫氏が招集され、上海から引き揚げ途中に長崎で病死したことから、経済的自立のことを考え、

1947年、司法省に裁判官採用願を提出したりしました。

願いは叶いませんでしたが、裁判官として仕事を学ぶためしばらくのあいだ、司法省に入って勉強するようにと言われたのです。

ようやく、女性判事として採用となりました。

嘉子はアメリカで家庭裁判所を視察、帰国後1952年12月名古屋地裁に転じ、初の女性判事となったのです。

三淵嘉子日本初弁護士女性ではじめての裁判所所長!

1956年最高裁調査官であった三淵貫太郎氏と再婚し、明治大学短期大学兼任教授、1965年から72年まで同兼任講師を務めています。

1972年新潟家裁所長に就任(女性として初の裁判所所長)、ついで浦和家裁所長、などを歴任し、1979年11月横浜家裁を退任しました。

横浜家裁時代には、薄汚れていた調停室を明るい白に変え、壁に絵をかけ、昼休みには廊下に静かな音楽を流した。そんな女らしい気遣いを見せたことも。

「家裁は、人間を扱うところで、事件を扱うところではない」という信念のもと、新しい改革を実行に移したようです。

三淵嘉子日本初女性弁護士裁判長 女性の社会進出に関して、エリート意識はNO!

でも、女性の社会進出に関して、こんな苦言を呈することがあったようです。「(戦後華々しく社会活動を始めた人の中には、エリート意識が強い人がいました。でも、明大の女子部の人達はエリート意識を持ちませんでした。」と明大の後輩たちにやさしく語りかける。

「大学で法律や経済を学ぶことが、社会で白眼視されていた時代でしたから、エリート意識は持たなかったのです」とも三淵さん。

「自分に力をつけ、そして人間らしく生きていこうという気持ちがつよく、職場でも地味に働いていました。

みなさま方にエリート意識など持ってほしくないのです。」と話す三淵嘉子さん。

「女性がどこへ出ても、1人前の人間として自立していくという、この明大の伝統を受け継いでいっていただきたいと思うのです。」と明大の在校生に向かって、こう話しています。

時代を切り開き懸命な努力を重ねてきた女性法曹の先駆者ならではの強くかつしなやかな生きざまが感じられます。

まとめ 三淵嘉子日本初女性弁護士裁判長 法律家として、そして教育者として

1984年(昭和59年)、享年69歳でこの世を去った三淵嘉子さんは、日本女性初の弁護士としてのみならず、教育者としても多大な貢献をしました。6月23日に青山葬儀所で行われた葬儀と告別式には、2千人近い人々が集まり、彼女への別れを惜しみました。女性として初めて裁判官の地位に就き、職業婦人の模範を示した三淵さんは、後進の指導にも情熱を注ぎました。また、連れ子を含む5人の子供たちにとっての良き母親であり、妻であったことも、彼女の多面的な人生を物語っています。



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