「知的でクールな印象で世界を魅了するトップモデルの冨永愛。かつては、身長179㎝という高身長をコンプレックスに感じ、自分に自信を持てずにいたが・・・・成功体験をつみかさねて」とNHKは言います。
一時は自殺まで考えた冨永愛の実像に迫り、トップの座を20年以上もキープし続けている秘密を知りたいと思いました。皆様の人生の参考になるなら・・・・・
冨永愛のプロフィール
さすがトップモデルの冨永愛。プロフィールも3サイズや年齢までハッキリ公開しています。まったく、9頭身とは驚きです。17歳でNYのランウェイデビューを果たしただけのことはあります。
名前:冨永愛(とみなが・あい)
生年月日:1982年8月1日
年齢:41歳(2023年11月現在)
出身地:神奈川県相模原市
血液型B型
公称サイズ:身長179㎝
スリーサイズ81-61- 88
カップサイズ:A
デビュー;1997年
備考:9頭身
所属UNDER GROUND、Maryline, Why Not、
Storm
参考:Trendy News Magazineより
冨永愛の誕生から17歳のNY行きまで
冨永愛自身が半生をつづった自伝の中で、幼少期、たいへん複雑な家庭に育ったと記述しています。
実は、3人の姉妹はそれぞれ父親が違うのです。
冨永愛の母親は、少なくとも2回離婚をして、3回結婚をしているようです。3歳の時に両親は離婚をしています。(父親が65歳の時に冨永愛は父親に会っています)
また、自伝には「並外れていたスタイルのため小学校のころ『宇宙人』というあだ名をつけられ、いじめられていた」ことなど衝撃的な内容が話題を呼びました。
「学校が終わると,裏山へ行って、死ぬことばかり考えていた」と当時を振り返る冨永愛。
そんな荒れた日々が続いていましたが、中2の時姉がモデルクラブに写真を送り、それがきっかけでモデル業を始めたのです。
モデルになったとはいえ、既製服のサイズが合わず、仕事に呼ばれないこともしばしば。女性ファッション編集者は、「辛い時期をすごしたこともあったようです」と言っています。
周囲の勧めもあって、17歳の時NYへ渡り、モデルとしてNYコレクションでデビューしました。以来、10年間世界のトップモデルとして活躍していました。
でも、冨永愛は仕事で訪れたNYやヨーロッパの地でも、アジア系だということで、人種差別にあうこともしょっちゅうだったとForbes Japanで告白しています。
冨永愛の結婚、出産、息子のため3年間の休暇を取得!
モデルの世界とは一度、体調を崩せば誰かがそのポジションに滑りこむ、そういう厳しい世界だと言う冨永愛。
そんな厳しい環境に臆することもなく、主に、NY,パリ、ミラノのファッションショーで活躍し、17歳という早い時期からモデルのキャリアを積み重ねてきたのです。
その間、2005年に日本人パティシエと結婚し、長男を出産。08年に離婚をし、冨永愛の手で息子を育てることになりました。海外で仕事をしていたので、その時の心の支えは、ひとり息子の章胤(あきつぐ)さんだったといいます。
実は、冨永愛は2010年にコレクションモデルを引退しているのです。ファッションモデルの中でもコレクションモデルは最高峰とされている。それを潔くやめたのだから、カッコいい!
「いろいろ差別もあったし、コレクションモデルの寿命は大体3年くらい。はやりすたりの世界ですから、やめ時を探していたのかもしれません」と当時をこう振り返っています。
また、その当時日本人モデルと言えば黒髪という固定観念にNOを突きつけて、金髪のショートにしたという。冨永愛さんはすごい反骨精神の持ち主のようです。(これもサクセスストーリーの秘密らしいのです)
その後、ジパンシーから独占契約のオファーがあり、ジパンシーのコレクションにだけ出て、コレクションモデルのキャリアを終りにしたというのです。
独占契約といういわばコレクションモデルの最高峰までのぼりつめて、ようやくランウェイを降りる決意を決めたのこと。
その後14年11月~17年月までの間、冨永愛さんは芸能界をお休みしています。原因は息子さんとの関係性によるもの。
かつて息子さんから「僕、生まれてこなきゃ、よかった」と泣きながら訴えられた時は、雷に打たれたようなショックだったそう。息子との絆を深めるために仕事を3年間休みました。
その息子さんに「お母さんそろそろ仕事しないとだめだよね」と言われ、モデルの仕事を再開したいきさつがある。今では息子さんもモデルとして大活躍!
なるたけ仕事と家庭のバランスよくやれるように、心がけたという。その後、パリコレクションなどに復帰し、居住地を日本に移し、俳優やタレント活動など幅広く活躍し始めました。
冨永愛2023年のNHKドラマ「大奥」に抜擢!
女優という新しいフィールドに挑戦した冨永愛。でも、以前から時代劇に興味があり、人知れず本を読んだり乗馬を習ったりしていたとのこと。こんな勉強熱心なところも、サクセスストーリーの秘密かもしれません。
だから、2023年の女将軍徳川吉宗役の時、馬で海岸の砂浜を駆け抜けるシーンも見事にこなせたというわけ。冨永愛は、一見自然体に見えて、実は用意周到!な人物のようです。
また、3年間仕事を休んだ時に、社会的な活動にも積極的にかかわるようになりました。恵まれない女性たちにスポットを当てて援助する団体のアンバサダーになったのです。ザンビアを2度訪問し、現在NGOのジョイセフィンアンバサダーを務めています。
そして、消費者庁エシカルライフスタイルSDGsアンバサダー、国連WFP(世界食糧計画)協会顧問、〈ITOCHU SDGsSTUDIO)エバンジェリストなどを務め、社会に積極的にかかわろうとしています
まさしく、20年代は新しい冨永愛の飛躍の年。新しい人生のフェーズを見せてくれた年でもあるようです。
まとめ 冨永愛は40歳過ぎてさらに飛躍!
17歳の時NYコレクションでデビューを飾り、いじめにあいながらも、常に世界の第一線で活躍してきた冨永愛。子育ての途中では、3年間の休養をとって、エネルギーをチャージし、新たなるステージに踏み出しました。
モデルのほか、俳優、テレビ、ラジオ、イベントのパーソナリティー、社会的貢献にも挑戦し続け、素晴らしい結果を常に出してきました。
今度は、引退後のモデルのセカンドキャリアを支援する新会社Crossover (クロスオーバー)を立ち上げたのです。「テレビのバラエティーやラジオのパーソナリティー、俳優などをやらせてもらっているからこそ、40歳になっても活動できている」と話す。
そんな経験も含めて、モデルのセカンドキャリアをサポートできたらいいと思うようになり、志を同じくする仲間(陳恵晴CEO)と会社を立ち上げるに至ったという。
40歳過ぎてから、また様々な活動に取り組む冨永愛、目が離せません。
人生百年時代を見据えて、セカンドキャリアを追求するのも大切なこと。どうぞ、このまんま年齢を重ねても八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を続けていてください。
コメント